継続は全知全能完全無欠の力なり。

どうも、ノモです。

新学期が始まって、新入生が入ってくるけど、なんのコミュニティにも属してないから後輩ができるわけでもなく、ただただ時の経過を感じる。こうやって世の中年下ばっかになっていって、孤独に老いていって、次の世代に淘汰されるんだろうなあいつか。人生超鬱エンドじゃんw

最近思う。幸福を手に入れるのってゴールじゃなくてスタートに過ぎない、と見せかけて実は手に入れた時点でゴールなんかなって。めんどくさくてゴメンよ。普通に考えてさ、幸福は継続してこそ幸福じゃない?でもそんなの難しいし、永遠の幸福なんてナンセンスと思うわけよ。時が過ぎ去っていってさ、「あの頃はあんなに幸せだったなあ」って思い出をしゃぶり回す方がよっぽどエモい。その方がよっぽど人間的ってな訳ですよ。

学生なもんで、いろんな場面でよく将来の夢を聞かれるけど、具体的な夢なんてまだ描き始めてもいないんすよ。我ゴミクズ底辺。でも頭空っぽ大学生なんて大半そうじゃない?パリピ陰キャの唯一の共通点。やったぜ。明確な将来像を持ってる人間にはリスペクトしかねえし、もはや同じ人間とは思えねえ。

ちなみに俺の将来の夢は侍。天翔龍閃切捨御免。

 

風呂をシャワーだけで済ます外道

どうも、人生どん詰まり大学生ノモです。

最近バイトをし過ぎて、時間が時給労働によって蝕まれていく感覚をひしひしと感じてる。学生の貴重な時間をドブに捨ててんなあって思うけど、だからと言って時間があっても何もしない気がする。マジで。

小説読んでエモくなるか、惰性でユーチューブ見て虚無になるか。バイト以外なんてそんくらいしかすることない。廃人じゃん。でもすごく狭い世界しか持たない俺に、本とユーチューブはいろんな世界を見せてくれる。マジで感謝。

梶井基次郎の「檸檬」って短編。あの作品の舞台になった本屋がめっちゃ身近なとこにあることを最近知ってテンション上がった。狂ってような美しさってさ、あるよね。特に人間。人間なんてほとんど腐ってるけどさ、キラキラしてて直視できないほどの輝きを放つ人もいるよね。そういう人ってもう美しすぎて本当に同じ人間か疑いそうになる。でもそれって、腐った人間で埋め尽くされたくらい世界だから輝いてる説あるくない?そう考えると、やっぱりそれでも愛そう腐れ人間って感じ。白ひげかよっつって。それにしても果実は狂気的に美しい。

 

ぼっち大学生はかっこいいのか?その注意点について

現代社会ではぼっちが蔓延っている。

私自身もぼっち側の人間である。

学生の諸君もぼっちという言葉をよく使っていることだろう。ぼっちは避けたいという人もいれば、ぼっちでも構わないという人もいる。

では、ぼっちは果たしてかっこいいのか?今回はぼっち大学生に層を絞って論じていく。そして、別にぼっちでもいいやと考えている人に特に読んで頂きたい。

まず最初に、皆が抱いているかっこいいぼっちのイメージを抑えたい。かっこいいぼっちとは一匹狼で他人と群れず、ブレない芯を持って思うがままに生きている。このようなイメージではないだろうか?結論から言うとこのようなぼっちはめちゃくちゃにかっこいい。世のぼっちは皆このようなぼっちに憧れていることだろう。

しかし、現実にかっこいいぼっちなんてほとんどいない。ぼっちの大半はぼっちと言いつつも中途半端に友達がいて、ウェーイな大学生を若干羨ましく思いながらも斜に構えていることだろう。わかるわかる、私自身もこのタイプのぼっちだから。このタイプのぼっちの注意点が何か分かるだろうか?それはぼっちであることをステータスにしている点である。ウェーイな大学生らと同じ土俵から降り、お前らとは違うからと思い込むことで小さいプライドを守っている。あなたはどうだろうか?だが、ここで私が言いたいのはそんなこと今すぐやめろと言うことでは決してない。大学生なんてそんなものだ。とくに志が高いわけでもないのにプライドは高い。それでいいではないか。そういったつまらない苦悩もいつか役に立つだろう。

しかし、ぼっちという何ら優れてもいないことをステータスにしている点については自覚するべきである。その上で貴方が、先に述べたかっこいいぼっちではないのなら、友達を作ってみようと思い立ってみることを私は勧める。なぜならその方がぼっちよりかは確実に楽しみが増えるからである。まあそんなことできたらぼっちになってねえよって気持ちは痛いほどわかる。私自身もそうだもん。ただ、ぼっちをステータスとして頑なにぼっちに留まったその先に何があるのだろうか?

以上が、ぼっちもぼっちなりに進んでいくのがおすすめだよという私の超主観的なぼっち理論である。

ご拝読感謝!!!!!!!!!!!